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[販売業者] 有限会社 矢部屋このみ園本舗
[販売責任者] 許斐 圓児 (五代目久吉) [所在地] 〒834-0031 福岡県八女市本町126 [電話番号] 0943-24-2020 [FAX番号] 0943-24-2021 [営業時間] 9:00〜18:00 [定休日] 元旦、その他臨時休業あり [E-Mail] info@konomien.jp
右写真:許斐(このみ)園本店 江戸後期 嘉永〜安政(1850年 代)年間建築
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許斐(このみ)姓は 福岡県北部の古族 宗像(むなかた)氏の庶流で、宗像家は有史以来 宗像大社の宮司職を代々務めた豪族でした。 氏姓の由来は諸説あり、宗像市内にある弘法大使・空海が拓いた真言宗最初の寺院 鎮国寺(宗像大社の神宮寺)には許斐権現の本地仏である阿弥陀如来の木像が安置され、神仏習合の本地垂迹説からもルーツが伺えます。 平安時代後期(10世紀末頃)に一門は武士化し、宗像本家は福岡県北部地域を治める領主となりました。 しかし後世、安土桃山時代(16世紀末)、宗像本家が当主不在の折、豊臣秀吉の大軍勢が九州に侵攻して参りました。 秀吉は九州平定策(宗像家の仕置き)として、世継ぎのいなかった宗像家に改易を命じます。 所領を没収された許斐家を含む宗像一門は各地に離散していきました。 その後、江戸時代中期(18世紀初期:およそ300年前) 久留米藩 筑後国上妻郡福島町 豊後別街道沿 (現在の八女市本町 福島地区)にて 筑後福島許斐家 初代 甚四郎は、近隣の山々で採れた産物を取り扱う問屋業をはじめました。 また、取り扱う山産物の採れる村名を屋号とし、「矢部屋(やべや)」と号しました。 さらに150年余後の幕末 慶応元年(1865年) 矢部屋六代 寅五郎(茶専門問屋 初代)はこの地方で生産されるお茶の優れた品質に着目し、当時はまだ珍しかった商いとして、茶に特化した専門問屋を開業します。
安政3年(1856年)に日本茶輸出貿易の先駆けとして長崎の大浦慶が英国人貿易商ウィリアムオールトとお茶の直接取引を開始して以来、日本茶の需要は海外で大いに求められるようになっていたのです。 寅五郎はこのような時代の流れの中、茶商の道を歩み始めたのです。 (しかし当時茶の生産量は少なく、流通量も限られていました。) |
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店舗写真:昭和初期
当時「日除け」(写真左側)と呼ばれる審査場をファサードに設置。 これは晴天や曇りの日でも同じようにお茶の色を見ることができる光の調整施設。 現在は技術の進歩により、 高照度の蛍光管の光で審査が行われている。
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明治に入り、輸出を急ぐあまり、乾燥工程をきちん経ずに送られていた日本茶は輸入国では大きな問題となっておりました。 明治20年代にはついにアメリカが粗悪茶輸入禁止令を出し、対米緑茶輸出は良品不良品に関わらず一時的にストップし、品質の伴っていない多くの日本茶は輸出不振となりました。 外需頼みの日本茶業界は苦境に立たされ、当地方の緑茶輸出も順次脱落していきました。
二代 久吉(初代)は当地方の茶業の行末を案じておりました。 初代久吉は方針を転換し、国内での販売拡大を目指します。 技術的な見地から、この地方の気候風土に玉露の生産が適していること見出し、より高品質な玉露の生産の為科学的な検証を行い、玉露の品質向上を進めました。 また流通の面では 当時から京都の特産品であった「宇治茶」を研究し、当地方のお茶の特産化を進めるべく模索しておりました。 この頃、八女地方のお茶は総して「筑後茶」と呼ばれ、「星野茶」、「笠原茶」、「黒木茶」等々細かい地域名でも呼ばれておりました。 また大半が旧来の釜炒り茶ゆえ、「宇治茶」や「静岡茶」に品質面で大きく差を開けられていました。 久吉は産地名を「八女茶」として一つにし、高品質な青製緑茶(現在の蒸製緑茶)の量産化に尽力します。 しかし、特産品として地域をまとめ、品質の向上を計ることは難しく、その計画は困難を極めます。
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大正〜昭和初期(太平洋戦争以前)まで使用していた 矢部屋許斐久吉商店(弊社の前身)製の商材
前:八女茶の茶壷 後:その進物用貼箱 |
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そして初代久吉の代では特産化の夢は叶わず、意思は息子の三代 久吉(二代目)に引き継がれました。
契機は大正14年に訪れます。 その年、福島町で行われた物産共進会 茶の品評会の部で、質・量とも対外的に通用することを確信できた当地方の茶業関係者たちに、二代目久吉(当時八女郡茶業組合理事長)は会合の席で、「八女茶」の名称と特産化を提案、それは満場一致で可決されたのです。 ここに久吉親子の悲願が達成されました。
その後、八女地区の全茶業関係者が一丸となり、さらなる茶の品質向上と生産量の拡大が計られて行きました。
今日では、八女茶は全国有数の高級茶ブランドとして品質と価値を誇っております。
幕末から八女福島の目抜き通りにて茶の専門問屋を営んでまいりました当店は、創業以来一貫して茶葉の品質を追求し、今日に至ります。 また一世紀半近くの茶問屋の歴史の中では、世界情勢と共に、家業の浮き沈みも経験して参りました。 とくに太平洋戦争敗戦後は家業も戦火の混乱で疲弊し、業務の縮小を迫られました。 そのような折にも、多くの人のご縁に支えられ、今日に暖簾を守り受け継いでおります。 先人達の想いを鑑み、これからもお茶を通じて皆様の心に豊かさや潤いを感じて頂けるよう、精進して参る所存です。
何卒一層の御引立の程、御願い申し上げます。 八女福島 許斐本家十代 許斐 圓児 (五代目久吉) |
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| 二代 許斐 久吉 (八女茶の名付け親 初代久吉 、幼名は佐平) |
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明治中期 明治43年
明治後期
大正初期
大正3年 |
八女茶の前身たる筑後茶の改良に努力する。
八女群茶業組合で郡産紅茶を日英博覧会 産業部門に出品。金牌を受領する。
八女郡茶業組合を通じて郡産紅茶を露領(現:ロシア)に輸出する。
八女郡大渕村(現:黒木町大渕)で玉露の製造が開始されると八女郡風土の気象条件を科学的に検証し、八女玉露の優秀性に着眼、技術革新に寄与する。
販路の拡大にあたり、「矢部屋(ヤベヤ)」の家印を商標登録する。同年7月11日商標登録。 |
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| 大正14年 |
八女郡福島町での物産共進会を機に郡茶組合の理事長をしていた二代目久吉は、筑後茶、笠原茶、星野茶など様々な名称で呼ばれていた郡産茶を「八女茶」と統一するよう提案、組合員の承認を得て名称を統一し、産地のブランド化を図る。 |
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昭和初期
第二次大戦中 |
朝鮮、台湾、満州、南洋(パラオ諸島)、アメリカなどの日本人街等へ供給するため八女茶を輸出する。
戦中、戦後の物資不足の中、正規ルートでの販売を遵守し配給所等に供給。闇市場での取引を自粛する。 |
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| 昭和30年代 |
敗戦後まもなくして、三代目久吉(正次)早世。 四代目久吉として 地域茶業の復興を図るため、八女茶商組合の理事を通して流通網の拡大や近代化(機械化)に努力する。 |
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平成11年
平成14年
平成20年
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田中瞳氏のコーディネイトにより、創業当時(江戸末期)からの建築物である店舗をリビルドする。八女茶に関する資料や代々の品を展示する。町家ギャラリーとしては、八女福島の町並では初の試みとなった。
コーディネーター 田中瞳氏の発案で、画家 田上允克氏 と カリグラフィックデザイナー 古賀美恵子氏 による新ブランド「八女茶でござる」を立ち上げる。初代 寅五郎をモチーフとして「伝統から生まれる革新」をテーマに、お茶の新たな価値作りの試金石とする。同年5月31日に商標登録。
温故知新をテーマに創業当時作られていた八女の紅茶を復刻する。1999年から試験栽培を始めた和製紅茶品種べにふうき、べにひかりを原料に試製。ふわりとした香気とまろやかな甘みが特徴。
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八女茶時代ギャラリー (入場無料)
このみ園は福岡県八女市福島の白壁の町並(国選定重要伝統的建造物郡保存地区)に慶応元年 八女で茶専門問屋を創業した最古参の茶舗です。 創業時からの店舗を当時の面影を残しギャラリーとして修復致しております。 江戸後期(1850年代:嘉永〜安政年間)建築の店舗は福岡県内で現存する茶舗としては最古のもので、茶問屋独特の珍しい町家形態や代々伝わる骨董をご覧頂けます。(中二階に八女茶でござるの画家 田上允克氏のミニギャラリーがございます。) 皆様のご来店を心よりお待ち申し上げております。
※明治六年 後方住居部増築。
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