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許斐本家の歴史

許斐本家の歴史

上写真/宗像大社辺津宮
福岡県宗像市にある宗像三女神末女 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀る神社
本殿は1578年に宗像氏貞(むなかたうじさだ)が
再建、 拝殿は1590年筑前領主・小早川隆景が再建

1.八女福島許斐本家(矢部屋)の由来と成立

一.  許斐(このみ)氏姓の由来について

一.  許斐(このみ)氏姓の由来について
上写真/沖ノ島「宗像大社沖津宮」                                        福岡県宗像市にある宗像三女神長女 田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る神社、島全体が境内「神宿る島」宗像・沖ノ島関連遺産群として2017年7月に世界遺産登録)

 古代 九州北部の海洋豪族 宗像(むなかた)氏の庶流として、かつて許斐家は福岡県宗像市に在りました。宗像家は、海神である宗像三女神:田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀り、代々宗像大社の宮司を務めた神官でもありました。また海人として朝鮮半島へ渡る海上ルートをもち、それ故古代ヤマト王権とも関わりをもち神郡宗像領として千年以上にわたりその地に在りました。

平安後期(10世紀末頃)に一門は武士化、福岡県北部を治める領主となり、当家も藩屏として宗像家を支えました。天文22年(1553年)「宗像知行帳」には「御家人許斐諸家」として 田島三家、本木郷一家、村山田一家、野坂庄一家、鞍手郡若宮一家として許斐七家がその周辺を治めておりました。

 

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         上写真/矢部屋許斐家紋木箱 「丸ニ剣花角 紋」 江戸安政三年(1856年)

16世紀戦国時代に入ると 宗像家は、当時勢力を伸ばし始めた豊前のキリシタン大名 大友宗麟らの軍勢と対峙する為、周防・長門・石見・豊前4か国(現山口・島根県・九州北部)の太守であった 大内義隆の後ろ盾を得その配下につきます。しかし1587年、宗像家が当主不在の折、豊臣秀吉の大軍勢が九州に侵攻します。

秀吉は九州平定策として、九州各地を支配していた諸将の入れ替えを行い、世継ぎのいなかった宗像家には改易を命じます。所領を没収され、許斐家を含む宗像一門は各地に離散し、有史より続いた宗像一族の栄華はここに潰えました。

同年(1587年)同じく大内家側に付いていた肥前の豪族 筑紫広門と懇意にあった当家(肥前許斐家)は、広門が秀吉から上妻郡一万八千石(現在の八女市中心部)に封じられた折、付従い筑後上妻(現八女市)の地に入りました。

当時の「筑紫家文書」には、広門の家臣団の中に許斐九郎右衛門をはじめ許斐姓の武将の名が上げられています。
しかし広門も、天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)では西軍に着き、敗軍の将として領地を召し上げられます。

同時に肥前許斐家一門も離散し、当家由来の許斐家は八女の奥地(矢部村)へと逃れ、乱世を生き延びたと伝え聞きます。

二.  矢部屋(八女福島許斐本家)の成立

矢部屋の家印

上写真/明治期築の蔵(製茶工場)に書かれた矢部屋の家印
当家の江戸時代の屋号は、近隣の山村の矢部から山産物をもって商いをしていた為に「矢部屋」と名乗った

 江戸時代 元禄(1688年)生まれの矢部屋※初代(許斐)甚四郎は、宝永年間(1704~1710年代頃:およそ300年前) 久留米藩 筑後国上妻郡福島城下町跡 豊後別路沿い(現在の八女市本町福島地区)に、近隣の山々で採れた茸、和紙の原料である楮(こうぞ)、茶、木材などの山産物を取り扱う問屋業をはじめました。 江戸元禄時代というと、戦の無い世の中となり、人々が商いをし易い環境が日本各地で整い、町人文化が花開き始めた頃でした。

矢部屋(やべや)…取り扱う山産物の採れる地名を屋号とした。

三.  輸出製茶問屋としての創業

店舗情報
上写真/明治30年露向出品用茶箱 「日本の第一級紅茶」と記され、茶摘から製造の様子を四面に亘り紹介

 17世紀に入り、オランダやイギリスの両東インド会社は、自国や欧米諸国の茶の需要の高まりから中国の茶を買い付けるようになります。安政3年(1856年)浦賀に来航したペリーは、太平洋ルートから清国の絹や茶を買い付ける米船の中継基地として日本の開港を要求しました。幕府はやむなく規制緩和を受け入れます。一方で同じ年に長崎では日本茶輸出貿易の先駆けとして大浦慶が英国人貿易商ウィリアムオールトと茶の直接取引を開始しアメリカへ輸出を始め、日本の茶も海外で求められるようになっていきました。ちょうどその頃、八女でも長崎へ茶を送り外国へ輸出する商いが増え始めました。 昔からこの地域で生産される茶は品質が良く、周辺諸国でも有名で、長崎での茶貿易がはじまると、八女の茶を買い付けに来る商人が増えいったのです。当家でも慶応元年(1865年) 矢部屋 八代(許斐) 寅五郎(製茶問屋 初代)が、茶の輸出を本格的に開始し、現在地(八女市本町126)に専門問屋として店を構えいました(現店舗)。 地方においても茶に特化した問屋ができる時代が訪れたのです。しかし、順風満帆に見えた日本茶貿易は、その後苦難の道をあゆむことになります。

2.八女茶の名付け親 許斐久吉

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上写真/許斐本家 昭和初期 店舗:当時「日除け」(写真左側)と呼ばれる審査場をファサードに設置。これは晴天や曇りの日でも同じようにお茶の色を見ることができる光の調整施設。現在は技術の進歩により、 高照度の蛍光管の光で審査が行われる

一.  日本茶貿易の危機

 明治に入り、輸出を急ぐあまり、乾燥工程をきちん経ずに送られていた日本茶は輸入国では大きな問題となっておりました。明治16年(1883年)、ついにアメリカは贋茶(粗悪茶輸入)禁止条例を出し、対米緑茶輸出は良品不良品に関わらず一時的にストップし、品質の伴っていない多くの日本茶は輸出不振となりました。外需頼みの日本茶業界は苦境に立たされ、当地方の緑茶輸出も順次脱落していきました。

二.  国内市場への回帰~  青製緑茶(蒸製緑茶)への転換と「八女茶」の名付け~

 九代 許斐久吉は当地方の茶業の行末を案じておりました。久吉は方針を転換し、国内での販売拡大を目指します。
技術的な見地からこの地方の気候風土に玉露の生産が適していること見出し、より高品質な玉露の生産の為に科学的な検証を行い、玉露の品質向上を推し進めて行きました。 
また流通の面では 当時から京都の特産品であった「宇治茶」を研究し、当地方のお茶の特産化を進めるべく模索しておりました。この頃、八女地方のお茶は総して「筑後茶」と呼ばれ、「星野茶」、「笠原茶」、「黒木茶」等々細かい地域名で、大半が旧来製法である釜炒製茶でした。当時流行していた本製※(現在の日本茶:蒸し製緑茶)である「宇治茶」や「静岡茶」に生産技術や流通面で大きく差を開けられていました。久吉は産地名を「八女茶」として一つにし、高品質な本製※の量産化に尽力します。しかし、特産品として地域をまとめ、品質の向上を計ることは難しく、その計画は困難を極めます。

大正~昭和初期(太平洋戦争以前)まで使用していた矢部屋許斐久吉商店(弊社の前身)製の商材

右写真:大正~昭和初期(戦前)まで使用した矢部屋許斐久吉商店(弊社の前身)の商材

前:八女茶の茶壷(万古焼)
後:アールヌーボー調ラベルが貼られた貼箱

三.  「八女茶」ブランドとして ~銘柄の統一と特産化~

 そして初代久吉の代では「八女茶」特産化の夢は叶わず、意思は息子の十代 許斐久吉(二代目)に引き継がれました。契機は大正14年に訪れます。その年、福島町で行われた物産共進会 茶の品評会の部で、質・量とも対外的に通用することを確信できた当地方の茶業関係者たちに、二代目久吉(当時八女郡茶業組合理事長)は会合の席で、「八女茶」の名称と特産化を提案、それは満場一致で可決されたのです。ここに久吉親子の悲願が達成されました。その後、八女地区の全茶業関係者が一丸となり、さらなる茶の品質向上と生産量の拡大が計られて行きました。
今日では、八女茶は全国有数の高級茶ブランドとして品質と価値を誇っております。

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上写真/昭和5年 東棟接待所にて旧八女中学同窓生と十一代久吉(左上)

四.  九州最古の茶商として

 当家は江戸時代中期より八女福島の町に創業、当時 中世の「八女」の音読みであったヤベ(矢部)を屋号とし、茶を取り扱う商家としては、九州では最古参の店となりました。幕末より現在地(八女市福島本町126)に移り、茶の専門問屋として、茶に特化した商いを営むようになります。ここ六代は「八女茶」に注力した久吉の名を襲名して代々当主は「久吉」を名乗っております。私としましてもこれからも先人の想いを鑑み、その歩んできた歴史を皆様にお伝えできるよう、心魂込めてお茶づくりに邁進していく所存でございます。何卒一層の御引立の程、御願い申し上げます                                            平成28年7月1日

矢部屋 許斐本家 十四代 許斐 健一 (六代目久吉)